消滅しつつある多くの伝統技を、地元・飯山から発信
神仏の鷲森の6代目。20代でUターンした鷲森さんは、新商品の開発や、伝統工芸の産地形成、また、飯山市若者会議など、多くのことに精力的に取り組んでいます。一度外に出たからこそ見えたという飯山の課題や、挑戦を続ける根本にある思いをお伺いしました。
絶望を味わった20代後半
18歳の時に始めたアルバイトは、長野市に店舗のあるアパレルメーカーの販売員でした。「当時は家業を継ぐことは考えていなかったし、親からそう言った話をされることもなかったですね」と話す鷲森さん。20歳の時に試験を受けて正社員となり、長野や東京でアウトドアの雑貨を扱うバイヤーの仕事を経験します。
「今思えば、そこでニーズを掴んで流通させる商売の基礎を学んだと思います」。
転機が訪れたのは翌年、21歳の時でした。
「勤めていた店舗の事務所に、母から電話が入って。先代である父が倒れた、と言うのです」。トンボ帰りで戻った長野で鷲森さんが目にしたのは、ベッドに横たわりチューブを繋がれた先代の姿でした。「そこからあっという間に亡くなってしまって。葬儀のために休みをもらって長野に帰りました」。
葬儀のため集まった親戚の人たちから聞いた言葉を、今でもよく覚えていると言う鷲森さん。
「父ちゃん、お前と仕事したいって言ってたぞ」「いろんな現場、連れて歩いてただろ?」
小さい頃から、自分にとっては遊び場であり家だった工場、よくしてくれた職人さんたち、継ぐ人が自分以外にはいない現状。今まで聞くことのなかった父の思いを改めて受け、鷲森さんは家業のことを強く考えるようになります。
「ある時、急に店舗ビルの屋上で絶望したんです。このままじゃまずいと思って、そこから仕事に身も入らなくなって。当時ちょうど昇級審査を控えていたんですが、断って会社を辞め、地元に戻る決意を固めました」。
飯山に戻ったのは先代の葬儀からちょうど1年、22歳の春でした。
伝統工芸であることの魅力と制限
戻ってからは、まず工場に入った鷲森さん。3年間の間、木工や金具、染めなど、神具仏具の基礎となる技術を学びました。
「アパレル業だったこともあり、創るという作業は楽しかったです。ただ、少しずつ覚えるにつれ、親方たちが高齢になってきていること、伝統産業法という決まりのなかでどうしても出る廃材のもったいなさなど、この3年間で見つかった課題も多くありました」。
現在、伝統工芸品は、作る工程の6、70パーセントを職人の手作業で、と法律で決められています。さらに素材は国産で、上質なもの。細かなチェックをクリアした一部の商品だけが伝統工芸品としての承認を受けることができるのです。
「上質なものを求めると、どうしても端材が出て来ます。当時は出た端材でアウトドア用の椅子やテーブルを作って、仲間と楽しんでいました」と鷲森さん。
その後は営業について学び、28歳で営業部長、翌年に専務へと昇進していきます。
せっかく役職に就くならば、鷲森さんのなかで挑戦したいことは決まっていました。それが、“現代ニーズと伝統工芸の融合”です。
一般的に仏壇は「どこか暗いイメージを持たれがち」と、鷲森さんは言います。しかし、その裏で使われている伝統技法は、そこにしかない、特別で面白いものでした。
「とにかく業界に若者がこないことも課題で。結局、人がいないと伝統産業がなくなるという危機感もありました。技の面白さは十分にある、それならば変えるべきはPR方法と受けいれ体制だなと」。ここから鷲森さんの挑戦が始まります。
社内では親方たちを説得しつつ、若者受けしそうな商品を検討、開発。作っている工程も、出せる限りSNSで発信をしていったところ、アウトドア雑誌から伝統工芸とコラボしたいとの依頼が入りました。
「まさに願ったり叶ったり。担当の方と打ち合わせを重ねて作ったのが、日本ならではの升を元にしたマグカップでした。これがなかなかヒットして」。
結果が見えることで、親方たちの反応や、世間から声も変わり始めたという手応えを感じました。「まだ若い人に入ってもらうには至っていませんが、今では親方たちから、“もっとこうしたらいいんじゃないか”という提案もあるほどです。社内の雰囲気は変わり始めましたね。今は、昔ながらの技術を生かした“竹のサングラス”の試作を重ねています」と、嬉しそうに教えてくださいました。
地域のなかも本当に“面白いこと”にライトを当てる
3年前から鷲森さんは、神仏具店の仕事の他に、飯山市若者会議の代表も務めています。メンバーは20代から40代。時の市長の声かけで始まり、行政と若者の渡し役として、調査や研究の結果を提言する活動を行なっている団体です。
「行政がライトを当てる人の横にも後ろにも、本当の課題や面白い人が隠れているんです。僕らは、そこ目掛けて出かけて行って話を聞く。そうやって接点を増やしています」。
困りごとや、“もっとこうしたい!”といった声は、近ければ近いほど聞いてもらえないことが多いと、鷲森さんは考えます。「若者会議で話を聞いて、僕らがワンクッションになって発信することで、少し耳を傾けてもらえてたりするんです」。
10、5年前は聞く耳を持ってもらえなかった話題も、少しずつ反応が見えるようになったここ数年。「そうは言ったって無理」が、「できるところから、少しやってみようか」に変わり始めたことに、鷲森さんは明るい希望を感じています。
足腰を強く、共通の戦力を持って
「1回都会に出る経験をしたからこそ、地方の方が何かを始めやすい、発信しやすい。そしてチャンスを掴みやすいと感じます」と、鷲森さん。
今では、新しいものを作る、技を残す、身近な暮らしを考える以外にも、伝統工芸に関わる産地そのものを飯山市に持ってくるという、産業を興す取り組みも始めています。
「県や市、法令の壁も大きいなか、産地や人、道具、全てが不足する時代がすぐそこまで来ています。それが自分たちにとってもどれだけヤバイことか、と思いますね」。
ぶつかる壁も多いそうですが、話せば変わるということを、着実に築いている鷲森さん。
「地域の足腰を強く、子どもたちの代まで続く文化をここでなら残せると思います。何か起きてもくじけないのは、周りのメンバーや家族のおかげ。時を見て、色々仕掛けていきますよ」と、笑顔を見せてくれました。