平田真澄さん:和紙職人になって飯山の文化を残したい。地域に対する責任と感謝の思いを胸に

伝統工芸の継承と発展、飯山に残していきたい景色

和紙職人の見習いとして、飯山市へ移り住んで10年目(2019年現在)を迎える平田真澄さん。大学時代から伝統工芸に魅せられ、文化財の修復や、平安時代の和紙の再現と研究をしていました。

就職と同時に一旦は伝統工芸から離れたものの、“本当の豊かさ”を考えた時、もう一度仕事として工芸品に取り組むことを決意。今回のインタビューでは、飯山を選んだ理由や移り住んでの悩み、そこから見えてきた可能性をお伺いしました。

自分自身の生き方を考え、離職を決意した30歳

はじめの就職先は、京都のアパレル企業。そこでバイヤーや販売の経験を積んできました。「和紙の道に進むにはどうしても田舎に移り住むことが必要でした。当時はまだ遊びたい思いもあり、京都を離れる選択肢はなかったです」。

「アパレル業界は流行があって、移り変わりの激しい世界です。ある種、学んできた伝統工芸とは真逆の世界でした」と話す平田さん。30歳を目前に、自分の生き方を考え直した時、目の前に溢れる服を見て「これは本当の豊かさなんだろうか」と考えたと言います。

「伝統工芸は、ある種、流行に左右されない普遍的なもの。今いる世界と真逆の場所ってどうなんだろう。という思いから、もう一回やってみたいと考えるようになりました」。

30歳ならば、もし途中で職人の道を諦めたとしても、まだ再就職可能なタイミング。色々な条件が揃って、平田さんは再度、和紙の世界に飛び込みます。

体験して分かった地域の課題

和紙の工房では、本格的な弟子入り前にまずは1ヶ月住み込み体験をしてみる、という募集をしているところがいくつかあります。当時は飯山市と岐阜市の2箇所で行われていましたが、平田さんの希望の立地やスケジュールと合ったのが、ここ、飯山市の阿部製紙でした。

「実際に来て初めて、飯山名産の内山紙とも出会いました。阿部さんから産地の状況を聞き、やるならここで、とその時に決めましたね」と話す平田さん。

数ある産地のなかから、平田さんが移住先として飯山市を選んだ理由は、 後継者がいないという危機感でした。

平田さんが住み込みに来た時にいた飯山の紙漉き職人は5、6人しかおらず、中でも後継が決まっていたのは阿部さんのところ一軒だけ。「他の産地に比べて少ないというのは一目瞭然でした。さらに、この辺りでは後継者を外から取ると言うことがなく、家業として継がれてきたんです。私が初めて外から入った希望者だったこともあり、これがうまくいけば、モデルケースとして人を増やせるんじゃないかと感じましたね」。

原料である楮をわずかながらも地場で栽培していて、製法も合わせて学べるところ、紙漉きに関わる人たちのあたたかさ、後継者の問題以外にも飯山は平田さんにとって和紙を学ぶに魅力的な場所でした。

和紙職人としての悩み、移住者としての悩み

移り住むことに不安はなかった平田さんですが、実際、住み始めてからの方が悩みは尽きなかったと言います。

まずぶつかったのが、すぐに職人になれないジレンマでした。来て最初の1年半は、阿部さんの元に無給で住み込みをしていた平田さん。その後、今の職場である市の施設に勤務をしながら、自分の作品を作ったり、紙漉きの技術を磨いています。

「ここ飯山では、独立イコール自分の漉き工房を構えるしか道がない状況です。障子紙を漉く技術もまだ足りないため、本当の意味で職人として“独立”は叶っておらず、目処も立っていません」。

地域の組合が製品として買い取ってくれるのは、飯山の伝統工芸品である内山紙の障子紙のみ。10年スキルを積んできた平田さんでも、まだこの障子紙を漉くことはできません。

しかし、飯山市で障子紙を漉ける職人は今もう2人だけになってしまい、ここ2年くらいは人手不足で生産もできていない状況だと言います。

「需要はあるけれど断っていて、顧客離れが続いています。今のうちに打破したいとは感じるものの・・・。生活していくためにも、和紙を知ってもらうためにも、市内のお店や各市町村、県からの依頼や、和紙を使った新素材の開発で、自分自身が手一杯なことも現状です」と平田さん。

一時期は辞めることも考えたそうですが、「ここで辞めてしまったら、やっぱり他所からはもう人をいれない、となってしまうのではないかと不安もあって・・・」と、せっかく移住したからこその心配もありました。

良くも悪くも、仕事自体は多くある状況が、ここ何年も続いていると言います。

大切なものを、残せる力を

苦労のあるなかでも、平田さんがこの仕事に情熱を注いでこられたのは、地域に対する責任と感謝があればこそでした。

「和紙がやりたいだけなら、他の産地に移る選択肢もありました。それでもやっぱり、飯山を産地としてどうにかしたいという思いもあったし、地域の方に受け入れてもらい、よくしていただいたから続けてこれたと思っています。単純にこの仕事が好き、と言うのもありますが」と平田さん。

今、平田さんの元にくる一番多い仕事は、デザインを含めた依頼なのだそう。
「私が、産地と伝統工芸を活かしたい地元業者さんをつなぐ窓口になれるのではないか、という可能性は感じています。そうやって自分が継続していく力をつけた上で、紙の漉き手、原料の作り手を増やしていくのも1つの形かな、と。もちろん自分のスキルアップは重ねつつですが、余裕が出れば障子紙にも取り組めます。和紙の産地として飯山の文化を残す活動にも注力していきたいですね」と、平田さん。

「小さな産地だからこそ、紙を漉きたい人が、中からも外からも入って来やすい“受け皿”が必要。それを作ることが、自分の仕事の拡大にも繋がると考えています」と、最後には笑顔を見せてくださいました。